こんにちは!ピースボートセンター福岡のみしょーです😊
最近はたくさんのボラスタさんがいて目まぐるしい毎日で、中々ブログが更新できず・・・💦忙しいのは嬉しいことですが、ブログも見てるよ~というありがたい声が多いので、頑張らんば!!✊と思う今日この頃です。
今日はお盆最終日ですが、今日からピースボートセンター福岡は通常通りOPENしています。
お盆は説明会で広島へ
この連休中はピースボートの旅行説明会で、四国・中国地方へ。
昨日8/14は広島の平和記念公園内の会場で説明会だったので、説明会前に平和記念公園や原爆ドーム周辺を散策してきました。
公園の入り口平和祈念資料館の前には、祈りの千羽鶴がたくさんありました。私も1羽だけお供え。
原爆死没者慰霊碑
公園内に入ると思ったよりも人はいて、慰霊碑には祈祷をする方々が並んでいたので、私もお祈りさせてもらいました。
写真だと小さいですが、このアーチの先には原爆ドームがちょうど見えるようになっています。
アーチの中にある石慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。その横にある碑文にはもう少し詳しく解説が。
すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて 全人類の共存と繁栄を願い 真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている(広島市HPより引用)
後ほど公園内にいるボランティア語り部の方に聞いたのですが、この『憎しみを乗り越えて』という文を外国人の方に案内していると「なぜ日本人は憎しみになるのか??」と聞かれることがよくあるそうです。
その理由は「原爆を落としたおかげで早く戦争が終われたから、むしろ原爆のおかげで多くの命が助かったから正しかった」と思っている方も多いそうだから。
もちろん一概にみんなそう思ってはいないと思いますが、これは心苦しい意見ですね。。
確かに戦争が長引けば長引くほど犠牲者は多くなる時代でしたが、どうして知恵のある人間という生き物が、命を殺さず解決をできなかったのか。時代背景を考えればわかるけれど、わかりたくない、そんな気持ちになりました。
原爆ドーム
丸焦げでも残った、ドーム型の鉄骨屋根は、いまは負の世界遺産として何かを物語っています。
ボランティアガイドさんは原爆ドーム付近に何名かいらっしゃって、各々話をしてくれているところに気づけば、立ち止まった人がお話しを聞いていてどんどん人だかりになっていました。
爆心地と被爆地蔵
左写真:今から77年前、この上空600mで原爆が炸裂。今日は少し曇っていました。もしあの日もこの空が曇っていたら、この地に原爆が落ちることはなかったかもしれません。
右写真:爆心地のすぐそばにあったお地蔵さん。真上からの熱風と放射線を受けました。熱を受けた場所はごつごつざらざらになっていますが、赤丸で囲んだところや陰になっていたところには、爆風は当たっていないのでツルツルのままです。触ってもいいよとガイドさんが言っていたので、私も実際に触らせてもらいました。
お地蔵さんと同じように、塀の陰にいただとか、家の玄関の中にいた・外にいたのほんの少しの差で、なくなった方・生き延びた方がたくさんいるそうです。
近くであった原爆展へ
上の写真は長崎や広島に原爆が落とされた経緯です。
この長崎の説明文、私の父方の祖父は長崎に原爆が落とされたその日、まさに小倉にいました。8/9は本当は小倉に原爆が落とされる予定だったそうです。もし小倉に落ちていたら私はいまこの世にいないかもしれません。
ちなみにもう一人の母方の祖父も、ちょうどそのころについに赤紙(軍への召集令状)が届き、準備のため東京から実家の佐賀に帰る途中、原爆投下数日後の広島を汽車で通ったそうです。本当にもう何もない焼け荒れた場所だったと語っていたのを思い出します。
その祖父は1945年8月20日に軍へ入隊命令が出ていましたが、そのほんの5日前8月15日に終戦を迎えたため出軍は免れ、御年95歳でいまも元気に生きています。
色んなタイミングが重なって私はいまここに生きていますが、逆に言えばいまはない命もここに生まれていたかもしれません。そう思うととても複雑な気持ち・・・
ガイドさんの話を聞いていて、疑問を抱くことが1つ。
※あくまでもここからの話は私が感じたことだと思ってみてくださいね。少し強い表現があります、気持ちを害される方がいたらすみません。
このボランティアの語り部ガイドさんの中にいた、胎児被ばくをされたおじいさん。その話の中で、
「アメリカは最低だ!!だから今もどんな国の人に聞いてもみーーーんなアメリカが嫌いなんだよ!そうでしょう??そうなんだよ!アメリカはずっと悪い。わかるよね?みんなも嫌いでしょう?」
という発言がありました。
この時私の中にすごくつっかえた気持ちが出てきました。
やはりガイドさんも両親が被ばく、ご自身も辛い経験があったでしょうから、こういった気持ちが生まれてしまうのは仕方ないことだとは理解できます。ただ聞いていた私からするとどうしても「今も、これからもアメリカを恨み続けろ」と聞こえてしまったんです。
周りの方の中には何人か頷くかたがいたり、子どもたちの中には「へえ~!そうなんだ!!」とそのままに受け入れる子もいました。
もし私がピースボートに乗っていなかったら、私自身もこの話を鵜呑みにしてしまっていたのかもしれません。
でも、ピースボートで地球一周したおかげで今私には、アメリカ人やそこにルーツを持つ友人も沢山いてみんなのことが大好きです。
ピースボートでシンガポールに行ったときのツアーでは、日本軍が世界大戦中シンガポールを支配していたころの、シンガポール目線のお話しを知るツアーに参加し、日本自身もたくさんの犠牲者を出していることを知りました。
だからこのガイドさんの発言を聞いた瞬間に、思わずなんだかとても悲しい・少し怒りにも似た気持ちになってしまいました。
どちらも簡単には非難できないし、簡単に答えは出ないでしょう。一生かかってもわからないことかもしれないです。
ただ、「少なくとも今この瞬間、私が心に少し疑問を抱いて考えた」ということ自体には、何か意味があるんじゃないかとは思えます。
過去の歴史はしっかり受け止めないといけないけれど、でもそれを理由にまた新たな恨みが始まってしまえば、歴史になんの意味もなくなってしまうのではないかと感じました。
だからこそこれからは、出来る限り多方面のいろんな人の話をもっともっと聞いて考えてみたいな、といま思うところです。
最後の世代はいまこれを見ているあなた自身かも。
平和公園にいたボランティアガイドさんたち、基本は被ばく2世の方・胎児被ばくの方(お腹の中にいるときに被ばく)でした。たまたまだったかもしれませんが、ヒバクシャ当事者さんはやはり高齢化していて、お話しも難しくなっていると最近はよく聞きます。
最近はなかなか被ばく時にある程度物心がついて当時の記憶がある方は、本当に今少なくなっています。
あと数年もしてしまえば、この世界から被ばく体験をしたことがある人がいなくなってしまうのが現実。
まさに私たちがヒバクシャさんから直接お話しを聞ける『最後の世代』とも言われています。
直接今すぐに聞くのは難しいですが、色々調べてみるとヒバクシャの方のお話しをまとめた動画を、広島平和記念公園さんのHPで見つけたので下記シェアしておきます
人と人とを結ぶ船。
いまの世の中は当たり前に、殺し合いをするゲームがあったり、さらにVRも発達してよりリアルに感じられたり、そんな環境がなんの疑問も感じず身近にあることを、私個人としてはなんだか恐ろしくなってしまう瞬間があります。
そしてこのブログを書いていると、私はいま正しいのか、よくないことを言っているのか、それを考えることすら野暮なのか?こんなこと偉そうに書いているけど、私なんかが言ってもだよなあ~・・・と、もうなんだか色々と頭がぐるぐるしてしまいます。
でもいまはぐるぐるでもいいかな、と。
ちょっとでもみんなも考えるきっかけになってくれていたら幸いです。
そしてぜひ、皆さんも世界をまわって友達を作ってみてください。その1人ひとりの繋がりが、いつか世界を救う日が来るかもしれません。
ピースボートはそんな人と人を結ぶ船だと、私自身思っています😊
戦没者の方々へのご冥福を祈って・いまもある戦争の惨禍にいる方々を想って。今日は締めさせて頂きます😌
2022/8/15 ピースボートセンター福岡みしょー
ピースボートのおりづるプロジェクト
国際NGOでもあるピースボートでは、ヒバクシャの方に乗船頂き世界中で証言活動、また次の世代にお話しを受け継いでいく語り部の活動も長年行っています!詳細は下記へ👇