今日は何の日?!
夏だ!海だ!!沖縄だ!!そんな季節になってきましたね🌞
今日は沖縄に移住して住んでいたスタッフみしょーが沖縄について、ちょっとお話ししていきます!



さっそくですが、きれいな海!世界2周してもこんな場所滅多にありません!!
そんなみんなが大好きな沖縄に、今日はいっそう思いを寄せてみてほしい、そんな日です。

さて、みなさんは今日“6月23日”は何の日か知っていますか??

沖縄『慰霊の日』

です。本土に住んでいると、1年に1回ニュースで見るくらいで、なかなか詳しく知る機会はないかと思います。
自粛が解除されてこれから徐々に沖縄に行く方も増えるでしょう…この沖縄で約75年前になにが起こったのか、私が平和祈念公園や戦争の跡地で知ったこと。

そして、戦争はこわい。だけど、私が感じたもう1つの「恐れ」も、後半に残したいとます。

■沖縄、慰霊の日



慰霊の日=1945年第2次世界大戦、唯一日本での地上戦である沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わった日とされています。

あくまでも、組織的に…です。一般住民も巻き込まれたこの沖縄戦、1945年3月から約半年弱に渡って続きました。組織的戦闘が終わった後も、暗い洞窟(ガマ)や茂み、海の岩場の陰、終わったことに気づかず隠れ続け、飢えで亡くなった方、自ら命を絶ってしまった方も数え切れません。

そして、地上戦になるもっともっと前から沖縄の農村部では毒性の強いソテツを食べなければ上をしのげないほど困窮し、「ソテツ地獄」と呼ばれていました。まだそんな日々から100年も経っていないんです。

この沖縄戦で亡くなった方は、国籍や立場を問わず約20~25万人。一般住民はそのうち約半分と言われています。 もちろん沖縄の方だけでなく、県外からの軍兵もいますし、アメリカ兵で亡くなった方も1万人以上。

本当は数で書きたくないんです。ひとりひとりに人生があって、いまだに亡くなったかどうかも分からない方がいることを思うと、自分なんかがこんなに語っていいものかと思ってしまいます。

■なぜ知ろうと思った?

私が数年前まで住んでいたのは沖縄でも北部、那覇から2時間はかかる田舎町。住んでいる約3年の間に戦跡に足を運ぶ機会もなく、福岡に帰ってきました。

ですが、地球一周の船の中で「沖縄デー」があり、その中で沖縄の歴史について沖縄在住の方たちから、沖縄の歴史を少し学ぶ機会がありました。中には涙を流す方もいて、「絶対に沖縄にまた行くときは戦跡をまわろう」と思いました。ピースボートの船内では何かを「知る」きっかけがたくさんあります。

■沖縄戦って沖縄の南部だけじゃないの?

沖縄移住当時、平和祈念公園等は南部に集中しているし、同じ沖縄で近いけれど、どこかちょっとだけ遠い話に思っていました。今年初めに行った資料館で

私が住んでいた大好きな丘の上が、武器を作る人たちが集められていた場所だったこと・通勤していた何気ない自然豊かな山道の茂みが、まさに地上戦の戦場で、たくさんの命が失われた場所だったこと。

そう知った時は、衝撃で言葉がでませんでした。
私が仲良くして、お世話になっていたおじぃ、おばぁも当時は小さかったとはいえ、その経験をしてきた人たちかも知れないということを初めてちゃんと認識しました。

やっぱり「沖縄に住んでいるときにちゃんと来るべきだった」と悔やみますし、正直いまでも言葉に表すのは難しいです。でも今「知る」ことにも十分に意味があると思います。

■人間が人間じゃなかった

今日のニュースで、実際に沖縄戦で当時12歳、摩文仁で生き残った方のインタビューがありました。

「自分で命を絶とうとしたその時、『死ぬのはいつでもできる。だから今死ぬな』そう父からいわれて、いま生きている。本当に生きていて良かった」
「かがんだ瞬間に背中の上を砲弾が飛んでいき爆発した。立ち上がって振り返るとさっきまで後ろにいたたくさんの兵士さんたちがみんな死体にかわっていた」
「たくさんの死体がそこら中に転がっている、だけど死体だとも悲しいとも思わない。何も感じないんですよ、人間が人間ではなかったから」

そう仰っていました。

それを聞いた時、「悲しい」「恐ろしい」と思える環境に私たちがいるだけでも、幸せなことなのかもしれないと思ってしまいました。

平和祈念公園と戦跡

沖縄戦最後の戦地とされる摩文仁(まぶに)。きれいな平和祈念公園や平和祈念資料館があります



まっすぐ伸びたこの先の中心に、「平和の火」が灯され、そこから扇状に「平和の礎」が広がっています。

「平和の礎」には75年経った今年も新たに戦没者と判明した30人の名前が追加で刻まれました。戦没者の名前を国籍や民間人、軍人の区別なく刻み、総刻銘数は24万1593人にのぼるそうです。



平和祈念資料館の入口。この先には海が広がっているのがわかります。
沖縄戦は海からの攻撃から始まりました。


この摩文仁から見える海の先に、海を埋め尽くすほどの無数の軍艦がいて、そこから「鉄の暴風」と称されるほどの砲弾が降り注いで来たら…考えるだけでも恐ろしく、でも私たちの想像ではきっと現実超えることはできないのだと思います。



旧海軍司令部壕跡。最後の砦であったこの丘には日本軍司令部が掘った洞窟に入ることができます。
最後に自決をした手りゅう弾の傷もすべて残っています。

■今、に感じた「恐怖」は…

実は資料館に行く前に私は那覇空港近くの瀬長島にも立ち寄りました。最近整備されたサントリーニ島風の人気の観光地。そこには私と同じ20代くらいの方々がメインでしょうか、歩きづらいな~と感じるくらい人があふれかえり、みんな“綺麗な沖縄”を楽しんでいました。もちろん私もです!!

ですが、この平和祈念資料館に来たとたん、空気がかわりました。全く人がいないんです。資料館は2時間ほど一人で回りましたが、おそらく社員旅行ついでに来た2名と最初にすれ違った以外、本当に誰もいませんでした。

あんなに観光地にあふれかえっていた人が、みんな消えてしまったのかと思うほど、ここには全くいない。

私が一番恐怖を感じたことはこの現状です。

もちろん修学旅行などがあれば、人はいるのでしょうが…
ここに来ないことが悪いわけではなく、そもそも普通に過ごしていたら頭に浮かぶ機会すらもほぼなくなってきている、戦争を知るお話や機会は、遠くにある人がほとんどで、それがなんだか恐い。

どうか、風化してしまわないように ————

まずは「知ってほしい」。そう思います。
私では全て伝えきることはできません。でも誰かに繋ぐことはできます。
だからこそみなさんも、いつか沖縄に行く際は、少しでもいいので戦跡をたどってみてください。
そこで知ったことや感じたことを誰かに繋ぐことにきっと意味があります。

私自身、ひとりでは受け止めきれず、資料館の後半は見られていないままです。また足を運ぼうと思います。

■平和と呼ぶには遠く、歴史にするには早く

最後に…
モンゴル800の「himeyuri~ひめゆりの詩~」という曲の中に、こんな歌詞があります。

“平和と呼ぶには遠く、歴史にするには早く”

私たちがこの凄惨な出来事を忘れてしまった時こそが、再び戦争が起こる時かもしれません。
命どぅ宝(命こそ宝)です。
感情が豊かな人間である限り、ウイルスや人種差別があらわになってきている現代でも、過去から学ぶ力はまだ私たちには残されています。

世界の隅っこにいて何ができるわけでもなく、自分が生きるのに必死な私ですが、忘れることだけはせず、心に留めていこうと思います。

このきれいな景色の中にたくさんの命があることを想って。

大事にしていきたい景色です!!